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義父の49日と納骨で感じた事♪
お坊様がお経を唱えられますw
「般若心経」
これはどの仏教の宗派でも唱えられます、、、
般若心経…前に勉強したのに、すっかり忘れてる~(><)
前にmixiの日記に
東京外語大学名誉教授の故 奈良 毅先生が
サンスクリット語で書かれたのを訳されたのをまとめて書きました。
それを読み返したら…
「般若波羅蜜多行」という修業をめっちゃ勧めてる♪
『般若波羅蜜多行は世の偉大なマントラであり、
大いなる知識を含んだマントラであり、
最上無比のマントラであり、
一切の苦を取り除くものであると知るべきです。
そしてこのマントラが、本当に、嘘偽り無く、般若波羅蜜多行の中に説かれているのです』
行……Mを薦めている(^▽^)ノ☆
「般若心経」は「Mノススメ」であります♪
自分のまとめた文章を読んでも直ぐに忘れる……素晴らしき忘却力♪
こちらにもコピペして貼っておこう♪
お時間のある方は、、ぜひ、お勉強してみて下さい♪
自分でいうのも何ですが、よくまとまっています(^^)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日はお休み♪なので……自分用に「般若心経」のお勉強をしたいと思います。
東京外語大学名誉教授の奈良毅先生の解説をまとめました。
なるべく…梵語で理解する方がいいそうです…(^^;)
ああ……むずい……すぐに忘れる……
ここに書いておけば…忘れた時に直に見れますね♪
しっかり理解しておく言葉
「般若波羅密多」…梵語で「プラジュニャー・パーラミター」
「空(くう)」…梵語で「シュンニャター」
「色(しき)」…梵語で「ルーパ」(形態をを持った目に見える力)
『摩可般若波羅密多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若 波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経』
■『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時(かんじざいぼざつ ぎょうじんはらみったじ)』
梵語で「アーリャ、アヴァローキテーシュワラ・ボーディ・サットー」
「アーリャ」は「非常に尊い」
観自在菩薩、は「観音様(世界をぐるっと見渡しておられる神様)」
これは当初観世音菩薩と訳され今でもそいういう呼び方で観音様を表している事が多いのですが、
これには本来「音」という意味はなく誤訳と言っていいかと思います。
本来は「観世尊」とでも訳すべき神様の名前だったのです。
「ボーディ・サットー」は「菩薩(如来や仏様になる直前の段階にある方」と訳されます。
その観世尊が「行深般若波羅蜜多時照見」をなさる、
「ガンビーラーヤーン(非常に尊い)プラジュニャー・チャリヤーム(般若波羅蜜多行)チャラマーナー・チャリヤーム(行じながら)ヴヤヴァローカティ(観察する)スマ(過去形)」
となります。
つまり「尊い観世音菩薩が、非常に深い意味を持つ般若波羅蜜多行をなさりながら、
次のように観察なさいました」という意味になります。
■『照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)』
「五蘊皆(等自性)空」は「パンチャ(五)スカンダース(要素)タースチャ(それらはまた)スワバーヴァ・シューンニャン(自在空)パッシャティ・スマ(見ました)」と発音し
「人間を構成する色(肉体)と心の動き(受・相・行・色)の五要素は、
本質的には皆空(シュンニャター)であるということを究められたのですよ」という意味になります。
■『度一切苦厄(どいっさいくやく)』という漢文は
「一切の苦悩から救われる。つまり全ての本質は空なのだから、苦の実態はないのだよ、それを知ることで苦も苦でなくなるのだよ」
というように解釈されますが、
実はこれに相当する梵語は原文にありません。
三蔵法師が一般読者のために自分の解説文を挿入したものと思われます。
■『舎利子(しゃりし) 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)』
「イハ・シャーリプットラ(舎利子)」という名のお弟子さんに対する呼びかけ。
「シャーリ」とは肉体のこと「プットラ」は息子のことなので肉体を持つ生身の全ての人々に語りかけているともとれる。
「ルーパン(色)シューンニャター(空)シューンニャター・イヴァ(即)ルーパン(空如是色)ルーパン(色)ナ(不)プリタク(異)シューンニャター(空)シューンニャターヤー(空と)ナ(不)プリタグ(異)ルーパン(色)ヤド・ルーパン(色)サー・シュンニャター(空)ヤー・シューンニャーター(空)タド・ルーパン(色)」と梵語で唱えます。
この全体の意味は
「そこでシャーリープットラよ、色とは空の状態を言い、空の状態はすなわち色なのだ。つまり色は空とは異なるものではなく、色は空、空は色と同じものなのだ」という意味になります。
ここで「色(ルーパ)」とは…我々人間が肉体の五感を通じて認識できる全てのものを意味します。
「空(シューンニャター)」とは何の差異もない状態を言います。
「般若波羅密多」の般若(プラジュニャー)は知恵、波羅密多(パーラミター)とは向う岸、彼岸の事の意味。
今我々が日常生活している「色」の世界をこちら側の岸としますと、
向う岸とは向こう側の「空」の世界という事になります。
ですから「般若波羅密多」とは彼岸に渡ることができる素晴らしい「知恵」ということになります。
「受想行識亦復如是」は「エーヴァム(如是)エーヴァ(亦)ヴェーダーナー(受)サンジュニャー(想)サンスカーラ(行)ヴィジュニャーナーニ(職)」
ここに出て来る受(ヴェーダナー)とは
目とか耳とかの五感を通して「色」から受ける我々の感覚の事をいいます。
想(サンジュニャー)とは感覚によって得られる認識の事です。
行(サンスカーラ)とはいくつかの認識によってこれは間違いなく何々だと判断することです。
そのような「色」から受ける4っつの感覚、認識、判断、感情というものと「色」そのものを入れた五要素のことを五蘊(パンチャ・スカンダーラ)と言います。
受想行識とは、物質的現象、感覚、判断、認識、感情というものも元来は「空(くう)」から出たものによって生じるのだから
思いとか感情も皆空(くう)の或る状態ということを言っている。
■『舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)』
は梵語で
「イハ(於此)シャーリープットラ(身子)サルヴァ(全)ダルマーハ(法)シューンニャター(空)ラクシュナー(特徴)アヌトパンナー(不生)アニルッダー(不滅)アマラー(不垢)ヴィマラー(清浄)ノーナー(不滅不損)ナ(不)パリプールナーハ(充満)」
と言います。
この意味は「シャーリープットラよ、
この世にある総てのものの本来あるべき姿は
空の特徴を持っているのだよ。
それは何処からか生じたというものではなく、
また消えてゆくというものでもないし、
汚れたものでも、清らかなものでもなく、減ったり、増えていっぱいになってしまうというものでもない。
そもそも世の総てのものは「空」がいろいろの相をとって現れたもので、
本質は依然として「空」なのだから」となります。
■『是故空中(ぜこくうちゅう) 無色(むしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 無眼耳鼻舌身意(むげんにぜつしんに) 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう) 無眼界(むげんかい)乃至無意識界(ないしむいしきかい)』
梵語では「タスマーチュ(其故)シャーリプットラ(身子)シューンニャターヤーン(於ける空)ナ(無)ルーパン(色)ナ(無)ヴェーダナー(受)ナ(無)サンジュナー(相)ナ(無)サンスカーロー(行)ナ(無)ヴィジュナーン(職)ナ(無)チャクシュフ(目)シュロートラ(耳)グラーナ(鼻)ジフヴァー(舌)カーヤ(身)マナーシン(意)ナ(無)ルーパ(色)シャブタ(声)ガンダ(香)サラ(味)スプラッシュタッタヴァ(触)ダルマー(法)ナ(無)チャクシュル(眼)ダートル(界)ヤーヴァン(乃至)ナ(無)ノマー(意)ヴィジュニャーナ(職)ダートゥル(界)」
となりこれを訳しますと
「故に空の状態の世界には、色(形あるもの)は何もなく、
感覚も判断、認識、感情(受、相、行、職)という、
色から受ける心の作用というものも全くないのだ。
そして眼で見ることも、耳で聞くことも、鼻で嗅ぐことも、舌で味わうことも、身体で触れることも、心で思うことも、空の状態ではあり得ず、
眼で見る世界も心で意識する世界も存在しない」という意味になります。
■『無無明(むむみょう)亦無無明尽(やくむみょいうじん)乃至無老死(ないしむろうし)亦無老死尽(やくむろうじんし)』
これは梵語の原文の「ナ・ヴィッデャー(明無く)」と「ナ・ヴィッデャー・クシャヨー(明尽くること無く)」の2語が抜け落ちています。
おそらく不完全な経版をインドから持ってきてそのまま訳したと思われます。
正しい梵語は「ナ・ヴィッデャー(明無く)ナーヴィッデャー(無明も無く)ナ・ヴィッデャー・クシャヨー(明尽くること無く)ナーヴィッデャー・クシャヨー(無明尽くることもなし)ヤーヴァン・ナ・ジャラー・ラマナン(同様に老死無く)ナ・ジャラー・マラナ・クシャヨー(老死尽くること無し」であり
「知もなく無知もなく、知の尽きることも無知の尽きることもない。
同様に、老いることも死ぬこともなく、また老いと死とが無くなるということもない。」という意味になります。
■『無苦集滅道(むくしゅうめつどう)無智亦無得(むちやくむとく)以無所得故(いむしゅとくこ)』
を梵語では
「ナ・ドゥフカ・サムダヤ・ニローダ・マールゴー(苦の原因を消す方法はなく)ナ・ジュニャーナン(覚智も無く)ナ・プラープティル(智の獲得もなく)アプラープティ・トワード(獲得し得ざれるのもなければ)」
といい、これは
「苦悩も、それが生じる原因も、それを消す方法も、その方法を知る知恵もない。
したがってその知識や方法を得ることも出来ない。
もともと得るべきものなど初めから無いのだから」
という意味になります。
これは、世の中の人々が知識であるとか財産を沢山持とうとか有名になろうとか、
いろんなものを求めて右往左往したりしますが
たとえそういったのもを得て、
一時は喜びを味わうことが出来たとしても、
いずれはまた悩みや苦しみの感情を味わう事になります。
更に、苦しまぬ為の方法や知識を探し求めようとすること自体、実は無知なのだとまで言っています。
なぜなら、そういう方法は本来無いのに
、あると勝手に空想して求めることになるので、それがかえって苦しみを招いてしまう結果となってしまうのです。
知識を多く入れることは、かえって無知に陥ることになってしまい、
確かに情報は沢山入って来ましょうが、
世の本質は総て「空」なのだということ
それが真理なのだということがわかりにくくなってしまいます。
「空」から総てが出て来ると言う真理を知ることが本当の知恵なのであり、
それ以外の「色」の知識と言うのは、苦悩や迷いを生み出す、つまり無知ということになるのだと言っているのです。
■『菩提薩捶依般若波羅蜜多故(ぼだいさつたえはんにゃはらみたこ)心無罣礙(しんむけげ)無罣礙故(むけげこ)無有恐怖(むうくうふ)遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)究竟涅槃(くうぎょうねはん)』
の梵語は
「ボーディサットワーナーン(菩薩達の)プラジュナー・パーラミターム(般若波羅密多に)アーシュリッテャ(依って実行し)ヴィハラティ(時を過ごす)アチッターヴァラナハ(心の障害なく)チッターヴァラナ・アティクラーントー(誤謬を超越して)ニシュタ・ニルヴァーナハ(究極の涅槃に入る)」
となっており訳しますと
「菩薩達の般若波羅密多行を実践していけば、
心の迷い無しで生きることが出来、
心の迷いがないから、恐怖ということはないし、何の恐れもなく、一切の誤謬から解き放たれて、
人間が最後に目指す涅槃の境地に入るのですよ」
という事になります。
■『三世諸仏(さんぜしょぶつ)依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)』
は梵語で
「トゥリヤドゥヴァ・ヴャヴァスティターハ(三世に渡って存在している)サルヴァ・ブッターハ(一切の諸仏は)プラジュニャーパーラミターム(般若波羅蜜多に)アーシュリッテャ(依って実行し)アヌッタラーン(最上の)サンミャク・サンボーディム(正しき覚りを)アビサンブッツダーハ(正しく悟る)」
と発音され
「三世(過去・現在・未来)に担って存在し働いておられる諸仏は、般若波羅蜜多行に依って生きておられるので、
最上の正しい悟りを得られたのですよ」という意味になります。
■『故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)是大神呪(ぜだいじんしゅ)是大明呪(ぜだいみょうじゅ)是無上呪(ぜむじょうしゅ)是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)能除一切苦(のうじょいっさいく)真実不虚(しんじつふこ)故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみったしゅ)』
は梵語で
「スタマージュ(それ故)ジュニャータッヴャン(知るべきである)プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多行は)マハーマントロー(大マントラであり)マハーヴィッデャー・マントロー(大なる知識のマントラであり)アヌッタラ・マントロー(最上のマントラであり)アサマ・サマ・マントラス(無比のマントラであり)サルヴァ・ドフカ・プラサマナハ(一切の苦をなくす)サッテャム(真に)アミッテャトゥワーチュ(嘘偽りなく)チャ(そして)プラジュニャー・パーラミターヤーム(般若波羅蜜多行の中に)ウクトゥー(説かれている)マントラハ(マントラが)」
と発音され、意味は
「それ故、般若波羅蜜多行は世の偉大なマントラであり、
大いなる知識を含んだマントラであり、
最上無比のマントラであり、
一切の苦を取り除くものであると知るべきです。
そしてこのマントラが、本当に、嘘偽り無く、般若波羅蜜多行の中に説かれているのです。」
■『即説呪日(そくせっしゅうわ)羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼぢそわか)般若心経(はんやしんぎょう)』
を梵語では
「タド・ヤター(それは次のようである)ガテー・ガテー(行道よ行道よ)パーラ・ガテー(彼岸に達する行道よ)パーラ・サンガテー(彼岸に到達する正しき行道よ)ポーディ・スワーハー(正覚智よ成就あれ)」と発音します
そして最後に「イティ(以上で)プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラン(般若波羅蜜多行の事を説いた大切な経)とあり、これをもって般若波羅蜜多心経を終わります」という意味になっています。
マントラは「神言」とか「神呪」と訳されますが、
真理を覚えるために必要な力をマントラを唱えることで得られるといのです。
つまり、エネルギーの元のような不思議な力を生み出すマントラは般若波羅蜜多行の中にあり、
一切の苦悩を取り除く力があるというのです。
ただしここで大事な事はマントラを単に唱えるだけでなく
般若波羅蜜多行を行じなければいけないという点です。
とにかく行を行じなければならず、
行じながらマントラを唱えるのだという事をしっかり認識して下さい。
と、いうことが書いてあるらしいです……(^^;)
そのマントラというのが
「ガテー ガテー パーラ ガテー パーラ サンガテー ポーディ スワーハー」
ですって……
はぁ……疲れたわ……よく打ったわ……
昔のインドの人って…すごいなぁと思います
(2006年05月30日の日記よりコピペ)
2006年かぁ…
この頃は、まだまだ心の暗黒時代…
この後…ライブにはまって今に至る♪(^^)
お坊様がお経を唱えられますw
「般若心経」
これはどの仏教の宗派でも唱えられます、、、
般若心経…前に勉強したのに、すっかり忘れてる~(><)
前にmixiの日記に
東京外語大学名誉教授の故 奈良 毅先生が
サンスクリット語で書かれたのを訳されたのをまとめて書きました。
それを読み返したら…
「般若波羅蜜多行」という修業をめっちゃ勧めてる♪
『般若波羅蜜多行は世の偉大なマントラであり、
大いなる知識を含んだマントラであり、
最上無比のマントラであり、
一切の苦を取り除くものであると知るべきです。
そしてこのマントラが、本当に、嘘偽り無く、般若波羅蜜多行の中に説かれているのです』
行……Mを薦めている(^▽^)ノ☆
「般若心経」は「Mノススメ」であります♪
自分のまとめた文章を読んでも直ぐに忘れる……素晴らしき忘却力♪
こちらにもコピペして貼っておこう♪
お時間のある方は、、ぜひ、お勉強してみて下さい♪
自分でいうのも何ですが、よくまとまっています(^^)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日はお休み♪なので……自分用に「般若心経」のお勉強をしたいと思います。
東京外語大学名誉教授の奈良毅先生の解説をまとめました。
なるべく…梵語で理解する方がいいそうです…(^^;)
ああ……むずい……すぐに忘れる……
ここに書いておけば…忘れた時に直に見れますね♪
しっかり理解しておく言葉
「般若波羅密多」…梵語で「プラジュニャー・パーラミター」
「空(くう)」…梵語で「シュンニャター」
「色(しき)」…梵語で「ルーパ」(形態をを持った目に見える力)
『摩可般若波羅密多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若 波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経』
■『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時(かんじざいぼざつ ぎょうじんはらみったじ)』
梵語で「アーリャ、アヴァローキテーシュワラ・ボーディ・サットー」
「アーリャ」は「非常に尊い」
観自在菩薩、は「観音様(世界をぐるっと見渡しておられる神様)」
これは当初観世音菩薩と訳され今でもそいういう呼び方で観音様を表している事が多いのですが、
これには本来「音」という意味はなく誤訳と言っていいかと思います。
本来は「観世尊」とでも訳すべき神様の名前だったのです。
「ボーディ・サットー」は「菩薩(如来や仏様になる直前の段階にある方」と訳されます。
その観世尊が「行深般若波羅蜜多時照見」をなさる、
「ガンビーラーヤーン(非常に尊い)プラジュニャー・チャリヤーム(般若波羅蜜多行)チャラマーナー・チャリヤーム(行じながら)ヴヤヴァローカティ(観察する)スマ(過去形)」
となります。
つまり「尊い観世音菩薩が、非常に深い意味を持つ般若波羅蜜多行をなさりながら、
次のように観察なさいました」という意味になります。
■『照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)』
「五蘊皆(等自性)空」は「パンチャ(五)スカンダース(要素)タースチャ(それらはまた)スワバーヴァ・シューンニャン(自在空)パッシャティ・スマ(見ました)」と発音し
「人間を構成する色(肉体)と心の動き(受・相・行・色)の五要素は、
本質的には皆空(シュンニャター)であるということを究められたのですよ」という意味になります。
■『度一切苦厄(どいっさいくやく)』という漢文は
「一切の苦悩から救われる。つまり全ての本質は空なのだから、苦の実態はないのだよ、それを知ることで苦も苦でなくなるのだよ」
というように解釈されますが、
実はこれに相当する梵語は原文にありません。
三蔵法師が一般読者のために自分の解説文を挿入したものと思われます。
■『舎利子(しゃりし) 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)』
「イハ・シャーリプットラ(舎利子)」という名のお弟子さんに対する呼びかけ。
「シャーリ」とは肉体のこと「プットラ」は息子のことなので肉体を持つ生身の全ての人々に語りかけているともとれる。
「ルーパン(色)シューンニャター(空)シューンニャター・イヴァ(即)ルーパン(空如是色)ルーパン(色)ナ(不)プリタク(異)シューンニャター(空)シューンニャターヤー(空と)ナ(不)プリタグ(異)ルーパン(色)ヤド・ルーパン(色)サー・シュンニャター(空)ヤー・シューンニャーター(空)タド・ルーパン(色)」と梵語で唱えます。
この全体の意味は
「そこでシャーリープットラよ、色とは空の状態を言い、空の状態はすなわち色なのだ。つまり色は空とは異なるものではなく、色は空、空は色と同じものなのだ」という意味になります。
ここで「色(ルーパ)」とは…我々人間が肉体の五感を通じて認識できる全てのものを意味します。
「空(シューンニャター)」とは何の差異もない状態を言います。
「般若波羅密多」の般若(プラジュニャー)は知恵、波羅密多(パーラミター)とは向う岸、彼岸の事の意味。
今我々が日常生活している「色」の世界をこちら側の岸としますと、
向う岸とは向こう側の「空」の世界という事になります。
ですから「般若波羅密多」とは彼岸に渡ることができる素晴らしい「知恵」ということになります。
「受想行識亦復如是」は「エーヴァム(如是)エーヴァ(亦)ヴェーダーナー(受)サンジュニャー(想)サンスカーラ(行)ヴィジュニャーナーニ(職)」
ここに出て来る受(ヴェーダナー)とは
目とか耳とかの五感を通して「色」から受ける我々の感覚の事をいいます。
想(サンジュニャー)とは感覚によって得られる認識の事です。
行(サンスカーラ)とはいくつかの認識によってこれは間違いなく何々だと判断することです。
そのような「色」から受ける4っつの感覚、認識、判断、感情というものと「色」そのものを入れた五要素のことを五蘊(パンチャ・スカンダーラ)と言います。
受想行識とは、物質的現象、感覚、判断、認識、感情というものも元来は「空(くう)」から出たものによって生じるのだから
思いとか感情も皆空(くう)の或る状態ということを言っている。
■『舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)』
は梵語で
「イハ(於此)シャーリープットラ(身子)サルヴァ(全)ダルマーハ(法)シューンニャター(空)ラクシュナー(特徴)アヌトパンナー(不生)アニルッダー(不滅)アマラー(不垢)ヴィマラー(清浄)ノーナー(不滅不損)ナ(不)パリプールナーハ(充満)」
と言います。
この意味は「シャーリープットラよ、
この世にある総てのものの本来あるべき姿は
空の特徴を持っているのだよ。
それは何処からか生じたというものではなく、
また消えてゆくというものでもないし、
汚れたものでも、清らかなものでもなく、減ったり、増えていっぱいになってしまうというものでもない。
そもそも世の総てのものは「空」がいろいろの相をとって現れたもので、
本質は依然として「空」なのだから」となります。
■『是故空中(ぜこくうちゅう) 無色(むしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 無眼耳鼻舌身意(むげんにぜつしんに) 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう) 無眼界(むげんかい)乃至無意識界(ないしむいしきかい)』
梵語では「タスマーチュ(其故)シャーリプットラ(身子)シューンニャターヤーン(於ける空)ナ(無)ルーパン(色)ナ(無)ヴェーダナー(受)ナ(無)サンジュナー(相)ナ(無)サンスカーロー(行)ナ(無)ヴィジュナーン(職)ナ(無)チャクシュフ(目)シュロートラ(耳)グラーナ(鼻)ジフヴァー(舌)カーヤ(身)マナーシン(意)ナ(無)ルーパ(色)シャブタ(声)ガンダ(香)サラ(味)スプラッシュタッタヴァ(触)ダルマー(法)ナ(無)チャクシュル(眼)ダートル(界)ヤーヴァン(乃至)ナ(無)ノマー(意)ヴィジュニャーナ(職)ダートゥル(界)」
となりこれを訳しますと
「故に空の状態の世界には、色(形あるもの)は何もなく、
感覚も判断、認識、感情(受、相、行、職)という、
色から受ける心の作用というものも全くないのだ。
そして眼で見ることも、耳で聞くことも、鼻で嗅ぐことも、舌で味わうことも、身体で触れることも、心で思うことも、空の状態ではあり得ず、
眼で見る世界も心で意識する世界も存在しない」という意味になります。
■『無無明(むむみょう)亦無無明尽(やくむみょいうじん)乃至無老死(ないしむろうし)亦無老死尽(やくむろうじんし)』
これは梵語の原文の「ナ・ヴィッデャー(明無く)」と「ナ・ヴィッデャー・クシャヨー(明尽くること無く)」の2語が抜け落ちています。
おそらく不完全な経版をインドから持ってきてそのまま訳したと思われます。
正しい梵語は「ナ・ヴィッデャー(明無く)ナーヴィッデャー(無明も無く)ナ・ヴィッデャー・クシャヨー(明尽くること無く)ナーヴィッデャー・クシャヨー(無明尽くることもなし)ヤーヴァン・ナ・ジャラー・ラマナン(同様に老死無く)ナ・ジャラー・マラナ・クシャヨー(老死尽くること無し」であり
「知もなく無知もなく、知の尽きることも無知の尽きることもない。
同様に、老いることも死ぬこともなく、また老いと死とが無くなるということもない。」という意味になります。
■『無苦集滅道(むくしゅうめつどう)無智亦無得(むちやくむとく)以無所得故(いむしゅとくこ)』
を梵語では
「ナ・ドゥフカ・サムダヤ・ニローダ・マールゴー(苦の原因を消す方法はなく)ナ・ジュニャーナン(覚智も無く)ナ・プラープティル(智の獲得もなく)アプラープティ・トワード(獲得し得ざれるのもなければ)」
といい、これは
「苦悩も、それが生じる原因も、それを消す方法も、その方法を知る知恵もない。
したがってその知識や方法を得ることも出来ない。
もともと得るべきものなど初めから無いのだから」
という意味になります。
これは、世の中の人々が知識であるとか財産を沢山持とうとか有名になろうとか、
いろんなものを求めて右往左往したりしますが
たとえそういったのもを得て、
一時は喜びを味わうことが出来たとしても、
いずれはまた悩みや苦しみの感情を味わう事になります。
更に、苦しまぬ為の方法や知識を探し求めようとすること自体、実は無知なのだとまで言っています。
なぜなら、そういう方法は本来無いのに
、あると勝手に空想して求めることになるので、それがかえって苦しみを招いてしまう結果となってしまうのです。
知識を多く入れることは、かえって無知に陥ることになってしまい、
確かに情報は沢山入って来ましょうが、
世の本質は総て「空」なのだということ
それが真理なのだということがわかりにくくなってしまいます。
「空」から総てが出て来ると言う真理を知ることが本当の知恵なのであり、
それ以外の「色」の知識と言うのは、苦悩や迷いを生み出す、つまり無知ということになるのだと言っているのです。
■『菩提薩捶依般若波羅蜜多故(ぼだいさつたえはんにゃはらみたこ)心無罣礙(しんむけげ)無罣礙故(むけげこ)無有恐怖(むうくうふ)遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)究竟涅槃(くうぎょうねはん)』
の梵語は
「ボーディサットワーナーン(菩薩達の)プラジュナー・パーラミターム(般若波羅密多に)アーシュリッテャ(依って実行し)ヴィハラティ(時を過ごす)アチッターヴァラナハ(心の障害なく)チッターヴァラナ・アティクラーントー(誤謬を超越して)ニシュタ・ニルヴァーナハ(究極の涅槃に入る)」
となっており訳しますと
「菩薩達の般若波羅密多行を実践していけば、
心の迷い無しで生きることが出来、
心の迷いがないから、恐怖ということはないし、何の恐れもなく、一切の誤謬から解き放たれて、
人間が最後に目指す涅槃の境地に入るのですよ」
という事になります。
■『三世諸仏(さんぜしょぶつ)依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)』
は梵語で
「トゥリヤドゥヴァ・ヴャヴァスティターハ(三世に渡って存在している)サルヴァ・ブッターハ(一切の諸仏は)プラジュニャーパーラミターム(般若波羅蜜多に)アーシュリッテャ(依って実行し)アヌッタラーン(最上の)サンミャク・サンボーディム(正しき覚りを)アビサンブッツダーハ(正しく悟る)」
と発音され
「三世(過去・現在・未来)に担って存在し働いておられる諸仏は、般若波羅蜜多行に依って生きておられるので、
最上の正しい悟りを得られたのですよ」という意味になります。
■『故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)是大神呪(ぜだいじんしゅ)是大明呪(ぜだいみょうじゅ)是無上呪(ぜむじょうしゅ)是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)能除一切苦(のうじょいっさいく)真実不虚(しんじつふこ)故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみったしゅ)』
は梵語で
「スタマージュ(それ故)ジュニャータッヴャン(知るべきである)プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多行は)マハーマントロー(大マントラであり)マハーヴィッデャー・マントロー(大なる知識のマントラであり)アヌッタラ・マントロー(最上のマントラであり)アサマ・サマ・マントラス(無比のマントラであり)サルヴァ・ドフカ・プラサマナハ(一切の苦をなくす)サッテャム(真に)アミッテャトゥワーチュ(嘘偽りなく)チャ(そして)プラジュニャー・パーラミターヤーム(般若波羅蜜多行の中に)ウクトゥー(説かれている)マントラハ(マントラが)」
と発音され、意味は
「それ故、般若波羅蜜多行は世の偉大なマントラであり、
大いなる知識を含んだマントラであり、
最上無比のマントラであり、
一切の苦を取り除くものであると知るべきです。
そしてこのマントラが、本当に、嘘偽り無く、般若波羅蜜多行の中に説かれているのです。」
■『即説呪日(そくせっしゅうわ)羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼぢそわか)般若心経(はんやしんぎょう)』
を梵語では
「タド・ヤター(それは次のようである)ガテー・ガテー(行道よ行道よ)パーラ・ガテー(彼岸に達する行道よ)パーラ・サンガテー(彼岸に到達する正しき行道よ)ポーディ・スワーハー(正覚智よ成就あれ)」と発音します
そして最後に「イティ(以上で)プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラン(般若波羅蜜多行の事を説いた大切な経)とあり、これをもって般若波羅蜜多心経を終わります」という意味になっています。
マントラは「神言」とか「神呪」と訳されますが、
真理を覚えるために必要な力をマントラを唱えることで得られるといのです。
つまり、エネルギーの元のような不思議な力を生み出すマントラは般若波羅蜜多行の中にあり、
一切の苦悩を取り除く力があるというのです。
ただしここで大事な事はマントラを単に唱えるだけでなく
般若波羅蜜多行を行じなければいけないという点です。
とにかく行を行じなければならず、
行じながらマントラを唱えるのだという事をしっかり認識して下さい。
と、いうことが書いてあるらしいです……(^^;)
そのマントラというのが
「ガテー ガテー パーラ ガテー パーラ サンガテー ポーディ スワーハー」
ですって……
はぁ……疲れたわ……よく打ったわ……
昔のインドの人って…すごいなぁと思います
(2006年05月30日の日記よりコピペ)
2006年かぁ…
この頃は、まだまだ心の暗黒時代…
この後…ライブにはまって今に至る♪(^^)
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